お遍路さんとは・・・
弘法大師(空海)の修行場となった霊場(寺)の巡礼、それが遍路。昔、伊予(愛媛)の富豪が托鉢(たくはつ)中の弘法大師の鉄鉢を割った。その後、破片数と同じ八人の子供が死んだため、富豪が大師を追って巡礼したのが始まりという話もあるが、定かでない。平安時代には始まっていたようで、江戸時代に盛んになった。 巡礼の服装は白衣に輪げさ、手甲、脚半を着け、数珠を持つ。それに納経帳を入れた布袋というのが定番。白衣は本来、死に装束。江戸時代、不治の病を治そうと巡礼する途中で倒れて亡くなる人が後を絶たず、せめて手厚く弔いたいと思った地元民が「そのまま葬ることができるように死に装束で」と言ったのがルーツのようだ。
霊場は四国四県に八十八か所あり、第一番から第八十八番へと番号の順番に巡拝する事を「順打ち」(遍路が札所を巡礼する事を打つと云う)と云い、四国の地を時計と反対方向に巡るのを「逆打ち」と云う。
一般には「順打ち」で行われ、道しるべや案内図もほぼ順打ちにのっとり表示されているから、「逆打ち」は不安定な条件が重なるので多くの苦労や困難を伴う。昔から「逆打ち」は「順打ち」の三回相当のご利益、功徳があると云われてきた。ただ逆に回れば功徳につながるという意味ではない。一番から番号通りに回るのが通例。
諸尊の悟りの世界を表現した曼陀羅(まんだら)のうち、悲の徳を象徴した胎蔵界曼陀羅の仏の数八十八に合わせたというのが定説になっている。
人生は少年、青年、壮年、老年に分かれ、それに合わせて心も発心(めざめ)・修行(励み)・菩提(ぼだい)(悟り)・涅槃(ねはん)(実り)と四分されるなど、仏教では「四」を基本数字にした教えが多く、讃岐、伊予、土佐、阿波という四つの国に分かれている地を弘法大師が修行の地として選んだとされている。
全区間を一遍に打ち上げるのを「通し打ち」、適当区間に区切って打つのを「区切り打ち」と云う便宜上の呼び方がある。今日では通し打ちができるのは大変恵まれた条件、境遇である。
一番札所の霊山寺(徳島県鳴門市)の門前で巡礼グッズや土産物を販売する門前町の「門前一番街」では一万二千円前後でコーディネートがOK。線香、ロウソクも必要。また、鈴をつけた金剛杖などがあればよい。菅笠に書く「同行二人」はお大師さんと道連れという意味。このスタイルで各霊場を巡って納経し、納経帳に朱印を受け、八十八か所を回って結願(けちがん)。このあと、大師が開いた和歌山・高野山に参拝して報告するという。
お遍路さんで「お接待です」といって道中で色んなものをもらう事がある。これは、お遍路さんは、お大師様(弘法大師)と同行二人の修行中のものたちという事で、お接待する方から見れば、歩き遍路こそ貧富も時間も体力も関係無い、全て平等の「お大師様と同行二人」の「修行中のものたち」。そのもの達にする事で、有り難く頂くのが、お接待する人に対する礼儀なのである。
お接待とは、道行くお遍路さんの食事の世話をし、タオルなどの必需品を差し入れ、道案内をすること、またはその人々の呼称。「接待講」はそうした奉仕の精神を持った人々が全国各地で作っている組織だ。以前は近くの人たちから寄せられた品物を持ち寄ったが、最近は寄金を募り、必需品を買って渡すケースが多い。
霊山寺の接待講は二つ。その一つ、二百二十年の歴史を持つ和歌山県野上町の「野上接待講」には現在も約六十人がいて同寺を訪れる人々に接待を続ける。
代表の畑口文雄さん(七二)は「弘法信仰に支えられ、細々ながら続けてきた」と語る。八十八か寺すべてにこうした優しさを持つ人々がいる。派手ではないが、日本のボランティアの原点のようでもある。
遍路の数は一九五四年ごろまでは年間三千−五千人にまで減少したが、その後、増加傾向にあり、ここ十年ほどは年間八万−十万人。六割以上が自家用車だ。会社勤めを終えた六十歳前後の夫婦などが多いが、高校生から七十代まで年齢層は広く、外国人の姿も・・・・・
その動機もさまざま・・・人生の区切りとして・・・・何か事情がある等・・・・・
一番から番号順に回れば三百六十五里(約千四百五十キロ)。昔ながらの「歩き遍路」も健在で、年間約千人が踏破。大学生の例をとれば、男子で約四十日、女子で約五十日。ちなみに車の場合は約八日間だとか。
遍路が現代の中で意味するものは何だろう。霊山寺の芳村超全住職(六七)は「求めても求めても得られない答えを歩きながら探す。遍路の道は心にゆとりをつくり、自己をみつめ直す道」と説いている。
ちなみに私は昔ながらの歩き遍路を決行しようと思っております。
歩かなければ意味はないし歩くからこそ答えが見つかり自己を見つめなおす事が出来ると考えております。